• 思考を他者として観る

  • 「両手で拍手するとパチパチと音がするけど、では片手でやるとどんな音がする?」

    これは「隻手の音」と呼ばれる最も有名な公案である。

    公案とは、禅宗で修行のために用いられる問題のことである。

  • 禅宗では、師匠が弟子にこの公案を与えられる。

    そして、弟子は必死になって、この公案の答えを考える。

    それは、片手間に考えるという次元ではない。

    寝ても、覚めても、歩いていても、座っていても、いつであろうと弟子はこの公案を考え続ける。

  • そして、ある日、弟子は弟子なりに1つの答えを出す。

    「師匠、わかりました。両手で打つというのは、すなわち、相対的な二元の世界を意味しています。一方、ひとつの手で打つとは、絶対的な一元の世界を・・・」

    そんなことを言うと、師匠は否定する。

  • 「何をわけのわからないことを言っているんだ。片手で拍手すると、どんな音がするかって聞いているんだよ」っと。

    弟子は追い返され、再び考えさせられる。

  • 弟子はなんとかして師匠が納得するような素晴らしい答えを見つけ出そうと躍起になり、ときにトンチのきいた斬新な答えに到着する。

    だが、師匠はそういう答えも決して受け付けない。

    師匠はどんなトンチ的回答も認めない。

  • そうしたことを繰り返しているうちに、弟子は、どうもこの問題については理論的な答えもトンチ的な答えも不可能だと思い知る。

    「師匠! わかりました! 無理です! これは不可能な問題なのです! 解決できないことにこだわってはいけないのですね!」などと。

  • しかし、師匠は否定する。

    「無理かどうかは知らない。いいから、片手でどんな音がするかを考えろ」

    多くの弟子はここで脱落する。
    だが、ひと握りの弟子がそこで踏みとどまる。

  • 不可能でも無理でも何でも、とにかく考え続ける。

    考えても答えが出ないことを、永遠と考え続ける。

    そして、思考は必死に主張する。
    「もうやめろ! こんなのは無理だ! これ以上考えると頭が壊れる」っと。

  • だが、やめない。
    それに耳を貸さず、それでも前へ前へ進み続ける。

    そして、ついに、これ以上考えたら頭がどうにかなる、狂ってしまうという限界が訪れる。

    しかし、それでもさらに一歩を踏み出す、その瞬間・・・

  • 彼の背中にまとわりついていた何かが剥がれ落ちる。

    それは、物心ついた時からずっとまとわりついていた「思考」という何かである。

    それは、彼にベッタリと同化し、自分自身だと思い込んでいたものである。

    つまり、「思考=自分」からの解放である。

  • その瞬間、弟子は絶対的な静寂に包まれる。

    ふと振り向くと、そこには「思考」がいた。

    彼は、生まれて初めて「思考」を「他者として観る」という体験を味わう。

  • そしてその「体験」の中で、彼は多くのことを「理解」する。

    思考とは、自分自身などではなく、ただの道具であることを。

  • まこ

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